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 DCS以前にコダックが開発していた140万画素CCD

 1987年9月にコダック・ナガセ鰍ゥら出されたパンフレットです。イーストマン・コダック社中央研究所が開発した140万画素CCDを搭載した工業用カメラの宣伝紹介パンフです。カメラの特長は(1)当時世界最高の1320×1035画素のCCD(2)ノン・インターレース・スキャン(3)デジタルとアナログの両出力可(4)電子シャッター内臓。
 イメージセンサーの性能は(1)画素数=1,366,200画素(2)6.8×6.8μの正方画素(3)撮像領域は8.98mm×7.04mm。パンフの写真を見ると一枚のシリコンウエハーに64枚の素子を焼き付けているように見えます。
 1991年のDCS発売の4年前にすでに大元の技術は完成していたようです。
メガプラスパンフ表メガプラスパンフ裏

 最初のデジタルカメラは湾岸戦争から生まれた?

 1991年以前に市場に出た銀塩フィルムを使わないカメラはすべてアナログ電子カメラだった。アナログ電子カメラの仕組みはビデオカメラの1画面を取り出して2インチ角フルッピーディスクにアナログデータとして磁気的に保存するでけであった。既存のカメラに既存のビデオ技術を組み合わせただけであり革新的な技術の飛躍があったわけではない。
 1991年夏、世界で初めて市場に投入されたデジタルカメラはコダック社のDCS(Digital Camera System)である。米国での発売は1991年だが日本への上陸は1992年1月までずれ込む。1990年8月にアメリカが始めた湾岸戦争に最新兵器としてDCSが大量に供給されたため民生用の出荷が遅れた。
 ニコンF3のボディの裏蓋をコダック製130万画素CCDを組み込んだ裏蓋に交換した形態をとっている。一眼レフに組み込むような大面積CCDの製造は歩留まりが悪くきわめて高価だったため、商品としては利用できなかった。当時のうわさでは、コンピューター画面を操作するだけの未来型戦争を目指していた米軍部から多額の開発経費を出してもらったため壁を越えられたと聞いている。データはコードでつながれたケース内のハードディスクに保存する。ケース内はコンピュータそのものである。画像処理と保存と画像データ送信機能を持っていた。モノクロ画像バージョンとカラー画像バージョンがあった。カラーバージョンの日本での売値は417万円前後だったと記憶している。1992年2月フランスで開かれたアルベールビル冬季五輪で複数の日本の新聞社によって使用された。
世界初のデジタルカメラDCS−32

 日本でも開発していた"世界初"のデジタルカメラ

 日本のフィルムメーカー富士もコダックと同時代からデジタルカメラの開発に取り組んでいた。1988年のフォトキナで40万画素のデジタルカメラDS-1Pを発表している。コダックと同じ1991年9月DS−100を発売した。試作機のDS−1Pや1989年の試作機DS−Xや市場投入したDS−100などは、富士と東芝の共同開発だったと記憶している。当時確か川崎にあった東芝の家電研究所で開発段階のデジタルカメラを見せてもらったことがある。
 アナログ電子カメラはテレビの静止画を見るように色がにじみ出たぼやけた画像だったが、デジタルカメラは40万画素と画素が少なくてもアナログとは一線を画すシャープな画像だった。大ぶりのコンパクトカメラのサイズに全てが収まっていて一般用途にはコダックより使いやすかった。レンズ交換もできないのでプロ用ではなかった。

 日本で作られた初のプロ用デジタルカメラ

 軍部が開発経費を出してくれる産軍共同があたりまえの米国と異なり商品にまとめたときのコスト計算をしなければならない日本では大面積CCDはなかなか作れなかった。民間企業として独力でやらなければならない富士はコダック製ほど大きくはないが同じ130万画素のCCDを開発してニコンと共同で一眼レフにまとめ上げた。1995年、富士からはDS505として、ニコンからはE2として発売された。ニコンマウントの一眼レフなのでニコンの交換レンズがほとんど使えるプロ用機として相当売れた。ニコンのレンズは24mm×36mmをカバーするイメージサークルを持つが、CCDはそれより遥かに小さい。そのままでは広角レンズが望遠レンズになってしまう。広角レンズが広角レンズとして機能するように用いた仕掛けが縮小光学系である。前後に分厚いずんぐりした形状は縮小光学系を内部に組み込んだためである。
 話がそれるがニコンの一眼レフを利用し拡大光学系を採用したカメラが過去に存在している。35mmカメラのイメージサークルは直径が43mmであるが、ポラロイドフィルムをカバーするには137mmのイメージサークルが必要である。そのためニコンFやニコンF2の裏蓋に穴を開け、光路の途中に55mmマイクロニッコールレンズを入れ更にミラーで光路を曲げてポラロイドフィルム上に焦点を結ぶように作ったカメラも存在した。

 最初の実用的プロ用デジタルカメラ

 1999年にニコンが発売したデジタルカメラD1は、現在のプロ用デジタルカメラとほぼ同じ外形とシステムを持ったカメラだった。日本製の撮像素子としては初めてAPS−Cサイズを実現した。 価格が65万円まで低下して大量に売れたニコンのD1だが、実はソニー製のCCDを4枚接合してAPS−Cサイズにしていた。日本ではまだ大面積CCD実現への壁は厚かったということだ。
Fuji S1Pro
 翌2000年富士フィルムが自社開発で国産初のAPS−CサイズCCDを搭載したS1Proを発売する。大面積CCD開発では米国に10年近く遅れての発売となったが、画素をハニカム(蜂の巣)配列に並べ各画素の形が8角形と独自の技術が光るCCDであった。S1ProはニコンのF60という入門クラスのボディーがベースになっていたので最新のAFレンズが使えないなどカメラ機能の制約が多く残念であった(写真はS1Pro)。




 ニコンやキャノンのプロ用一眼レフボディーを流用しコダック製CCDを搭載したカメラは1991年のDCS発売以降、コダック社から色々改良を加えた機種が発売されていた。キャノンは専らコダック社からOEM提供を受けてキャノンブランドで販売していたが、外部ソフトウェアを含め全てコダック製で、キャノンの独自色はまったくなかった。価格も初期には200万円前後と高かった。
 この年、キャノンも初めて自社製のデジタル一眼レフD30を発売する。驚いたことにCCDではなく撮像素子に不向きとされていたCMOSを使っていた。CMOSは各画素の特性がばらばらで均等の出力を得るための制御が難しくノイズも多くカメラには使えないと一般には思われていた。音なしの構えだったキャノンはひたすらCMOSの制御技術研究を続けていたのだろう。

 2000年当時、コダックが発売していたプロ用デジタルカメラの一覧表

 2000年9月にコダック社から配布されたプロ用デジタル入力機器の資料が出てきた。デジタル一眼レフカメラとフィルムスキャナーのモデル名称と販売価格が載ったペーバーと商品説明のCD−ROMのセットです。
 デジタル一眼レフカメラは、ニコンのF5ボディーを利用した200万画素のDCS620(88万円)とDCS620X(115万円)、600万画素のDCS660(180万円)、キャノンのEOS−1Nボディーを利用した200万画素のDCS520(88万円)、600万画素のDCS560(180万円)である。200万画素機は22.8×15.5mmのAPS−Cサイズ近似のCCDを搭載し、600万画素機は27.6×18.4mmのAPS−Hサイズ近似の大面積CCDを搭載している。ISO感度は200万画素機が200〜1600相当と実用的だが、600万画素機は80〜200相当と低感度。というわけでデジタルカメラの主たるユーザーであったPRESS分野では200万画素機しか採用されなかった。PRESS分野では撮影現場でノートパソコンに取り込み、最大通信速度が56Kbpsのモデムを介してアナログ電話回線や携帯電話に接続し、デジタル画像データを送信するので画素数が多いと時間がかかり過ぎるのを避ける意味でも200万画素で充分と考えられていた。DCS620XはISO感度が400〜6400相当と特に高感度で室内で高速シャッターが必要な屋内スポーツやナイター撮影に向いていた。
コダックプロフェッショナルデジタル画像製品価格表
 本国の米国では、ワールドワイドで活動する巨大通信社が大量に採用して第一線で活用していたが、日本では余り売れなかったようだ。日本の報道関係ではフィルム一眼レフはニコンが主流で、ニッコールレンズを利用する関係で1999年発売のニコンD1がすでに主流になっていた。キャノンレンズを使っている所では、キャノン製のデジタル一眼レフがなかったので、コダックのDCS520とDCS560および、ラベルだけCanonに付け替えたOEM商品が少数使われた。このOEM商品のCCDが故障するトラブルを体験した。最初、画面上に黒い横線が一本入り、それが段々増殖していって使用不能になった。CCDそのものの欠陥から発生した故障なのでキャノンで無償でCCD交換をしてもらった。有償交換なら修理費は50万円ですと聞いた。それほど大面積CCDは高価だった。

(以上の文章は大部分著者の記憶に頼って書きました。間違いや誤解を含んでいる可能性がありますので引用しないようにお願いします。) トップページに戻る